Parti pris

最近、知り合ったある女性は、声優の専門学校に通っていたと言う。彼女の同級生や知り合いで声優デビューした人は居るかと訊ねると「聞いた事がない」と言う。その学校はひどい商売をしているものだ、と思ったのだが、よくよく考えれば、よくある話だ。
卒業生のうちその分野で飯が食えるのは2、3人/学年であると言われているのにもかかわらず、美術・芸術系大学は凄い倍率であり、何浪しても入学することが難関である。また、サッカーのユースチームなどに入っても、プロとしてやっていける人間はごく一握りだろうし、演劇畑、芸能畑も同様だろう。そう考えると声優専門学校も業界規模/志望者比率は殊更非常識ではないかも知れない。にも関わらず、最初に彼女の話を聞いた際に私が「非常識だ」と感じたのはなぜだろう。
すなわち、それは、内容の非常識さではなく、自分が知らない世界のことだったからである。己の無知さを「非常識」「ひどい」とラベリングすることで業界の問題に転嫁していたのだ。まさに狭量である。
例えば、宗教界において、既存宗教も新興宗教も、本質的にしていることは変わらない。新しさや古さと関係なく、良心的な人は良心的に、そうでない人はそれなりに宗教を営んでいる。にも関わらず、新興宗教と聞いただけで眉をしかめてしまうし、既存の伝統的宗教家だと聞くと人格者であるかのように先入観を抱いてしまう。これもやはり思考停止による偏見と言えるだろう。発展途上国出身の外国人に対する偏見も同様に無知と思考停止から生じている。
自分では無知や思考停止について留意しているつもりであっても知らず知らずのうちにそのような状態に陥ってしまっているものだ。ゆめゆめ気をつけねばなるまい。