Wishful thinking

久し振りに竜一郎に逢った。竜一郎は、うちの父の病気の分野の専門家として医療関係機関で働いており、雑談しつつ意見をいただいた。するとやはり「完治することはある」とは言え、その可能性は低く、小康状態を保ったとしても再発する可能性は高いだろうと言うことだった。どんな病気にせよ「完治する」可能性はあり、患者もその家族も藁にすがるようにその可能性にすがる。癌だった母を持っていた身としては、アガリクス茸に騙された患者の気持ちが良く分かる。しかし「可能性がある」と言う定性的な指標だけでは正確な判断は出来ず、ついつい希望的観測に陥りがちである。「どれくらいの可能性か」と言う定量的な指標を用いて今後の見通しを立て、未来予想図を描いて行かずばなるまい。そう考えるとやはり状態の悪化を前提に「治ればラッキー」「現状維持オーライ」と考えていかずばなるまい。
私も、これを読んでいる貴方も、誰もが今この瞬間も死に近づいており、そして、死は全ての人間に例外なく平等に訪れる。誰もが常に死と老化への階段を登り続けているのだ。統計的には、喫煙家は非喫煙家よりも少し早足でその階段を登っていることになる。病気の人々や老人の場合は、少しつまづいたりするから、その階段の存在が明確に意識されるだけである。
そして竜一郎はプロの立場として「患者の人生と自分の人生を切り離して考えないと誰一人幸せになれない」と言う。無論、彼の経験則は傾聴するに値するし、理屈でそうだとは分かっているのだが、やはり感情的には完全に切り離せない。親が親であること、子が子であることは、取り立てて肯定する必要もないが、否定も出来ないから、あるがままに受け入れていくしかない。
小噺を一つ。睡眠障害を持つ親父に言ってみたい台詞。

  • 「親父、起きろよ、睡眠薬飲み忘れてるぜ!」