Hustle!

鬱病患者に「がんばれ」は禁句である。往々にして彼らは「がんばらなかった」からではなく、「がんばりすぎた」からこそ鬱病になったのである。
私も「がんばれ」と言う言葉が嫌いだ。
発言意図にかかわらず、「がんばれ」と言う言葉の裏に「お前、がんばってないだろ?」との責めを感じてしまう。そして、「がんばれ」と言われる時は、大体に置いて自分が精一杯にがんばっている時なのだ。
ダーツの時も、精一杯集中している時に「がんばれ!」「集中!」とか言われると、余計緊張して力んでしまい、ダーツが思ったように飛ばない。純粋に好意から発言していただいているのは分かっているから、ひねくれてこんがらがった私の思考回路に問題があるのかも知れないが、実際問題として「がんばれ」と言われても困ってしまうのだ。
同様に「結婚出来るようにがんばんなきゃ」とか「仕事をがんばれ」とか言われるのも癪だ。「お前に何が分かるのだ、私ががんばっていないとでも言いたいのか」と反論したくなるのだが、哀しいことに、ほとんどの相手は社交辞令であろうとも好意でそう言ってくれているので、悪意で返せない。
小中学校時代に接した教員の多くがそうであったように「根性論」「がんばれ」だけで好結果を目指すのは安直で、陳腐で、非効率的である。
「がんばれ」と言うのは「エンジンの回転数を上げろ」と同意であると仮定する。これは、エンジンをすでに思いっきり回している(あるいはそう思っている)ドライバーには無意味な台詞だし、エンジンブローの危険性を増大させる。一時的な効果をあげることがあるにせよ、あまりにも安直な助言であると言わざるを得ない。
当事者以外の助言として有効なのは、短期的には、

  • エンジンから出力されるエネルギーを有効活用させるための助言

であり、長期的には、

  • 根本的にエンジン性能を向上させるための助言

である。
格闘技のセコンドとか、スポーツのコーチ・監督が試合中にどのような指示をするのかを考えてみよう。それは、競技者が把握しにくい情報を分析・統合した上で立案される客観的で具体的な指示ではないだろうか。確かに、最後に勝負を決するのは勝負に対する執着心であり、それは「気合いだ〜!!」と表現される精神論で語れるし、筋肉中に乳酸が蓄積して体内のエネルギーが枯渇した状態でもエネルギーを絞り出すためには精神力が必要だろう。その状態で「がんばり」を引き出すためには応援団の声援が役立つかも知れないが、その精神を発露させるためには、前条件である「勝つためのロジック」を達成していなければならないのではないだろうか。そのロジックを無視して最後の精神論のみに注力するようでは対戦末期の日本軍と同様である。
また、近眼視的な「がんばり」は行動、選択の範囲を狭め、せっかくのエネルギーを無駄にすることが多い。指導者、助言者は「がんばれ」と言うべきではなく、むしろその「がんばり」のエネルギーを有効活用するために最適な方法を常に考えるべきだ。間違った練習方法でどれだけがんばったとて、必ずしも腕前が上がるとは限らない。その練習に費やすエネルギーリソース(時間、労力、金銭)を腕前に反映させるために最も効果的な方法を考えるべきだ。また、更に優れた指導者、助言者は、持続的にエネルギーを捻出させるため、モチベーションも上昇させる術を持っている。
そんなこんなで、私は最近「仕事を頑張りすぎない」を目標にしている。元々が好きで就いた職業であるし、凝り性でもあるから、気を抜くとついつい滅私奉公のように注力してしまう。同僚や上司を見ると「いろいろ考えてたりやったりするのは面倒だから、自分ががんばればよい」と考えている者が多。彼らは「がんばりやさん」として認知されているが、「がんばり」が必ずしも結果に結びついていないように思われる。私は常に「いかに楽をして結果を得られるか」を模索している。結果論だけ見ると「まじめに素直にやった方が早かったじゃん」と言われることも多い。例えば、単純な数字の計算を大量に行う際に、いちいち計算せずにExcelでマクロを組み、検証用のマクロまで組む。そうこうしていると素直に計算をした方が早かったりするのだが、同様の案件が出た時には以前のファイルが活用出来るし、このトライ&エラーは必ず財産になる。
話が少しそれたが、近眼視的な「がんばり」は「目標」「手段」「効果」を考えるに効率が良くないことがあるから、単純に「がんばれば報われる」「努力は偉い」との高度経済成長期的な価値観から脱することが肝要であると考える。
これからも、がんばらないように一生懸命がんばろうと思う。