Self-responsibility

少し前に「自己責任」との言葉が流行った。
個人権利の行使と自己責任は表裏一体なのだから、個性の尊重、価値観の多様化が唱えられて久しい昨今では、以前よりも自己責任を問われることも多いのだろう。私も日常的に「それで誰それがいいと言ってるんだからいいじゃないか」と、他人の意志・権利を尊重している。
しかし、これら意志・権利を尊重する習慣が確立してしまったため、本来そうすべきでない場合、すなわち表裏一体であるはずの自己責任を取れない場合にまで、他人の意志・権利を尊重しすぎてしまってはいまいか。
自己責任を取れない者には、未成年者、泥酔、疾患による心神喪失者等があげられる。では、これらの者の行動は誰が律し、そして責任を取るべきなのか。未成年の場合には、保護者が定められているから問題は少ない。泥酔者の場合には、泥酔から回復した時点で本人に責任履行能力が回復するが、判断をそれまで待てない場合も多いし、通常の酔いと泥酔・酩酊との境界が漸移的であるため、本人の権利喪失時期の判断が困難だ。酔っぱらいが「大丈夫」と言ったところで、説得力はないが、では、一体、誰が判断すべきなのだろうか。また、判断した者には責任が発生するのだろうか。私がほぼ素面の状態で、同行の酔っぱらいが素行不良を続けてくれたおかげでそんなことを考えた。本人達は大丈夫と言っていたのだが、結果的には大丈夫ではなかった。酔っぱらいの行動を律せないのならば、飲ませるべきではない。
同様に、本人の意志を尊重し、心身共に状態が悪くてドクターストップがかかっている病人を遊びに同行させてしまった。ドクターストップがかかるくらいなのだから、本人に判断能力もないのだろうし、責任履行能力もない。酔っぱらいの心神喪失の判断は困難ではあるが、病人の状態に関しては専門家たる医者が判断している。医者の判断は往々にして安全側にふられているのだろうが、病人本人にも、医者以外の周囲の人間にもそれを覆すだけの判断能力が無い。その病人に何かあった場合、責任を取るだけの意志と能力がなければ、医者の判断に逆らうべきではない。今回はたまたま大きな過失に繋がらなかったが、本人にとって取り返しの付かない事態に陥る可能性もあったのだろう。
未成年者や心神喪失者の意思を尊重し、その行動を看過することは、「未必の故意」に相当するのだろうか。また、本人のためにこそ、自律状態に無い者達には客観的立場から苦言を呈するべきではないだろうか。