Dustheap

お気に入りの本や映画は、繰り返し味わう質だ。しかし、予期せずして繰り返し味わってしまうこともある。
3月19日*1の日記に書いた『がむしゃら1500km(浮谷東次郎)』のあとがきと解説を読んで気付いた。この本読んだことある。なんとなくデジャヴ(既視感)を感じていたのだが...。しかも、おこがましいことに、「こういう本は思春期の少年にこそ読ませたいものだ」との読後感を持っていた。私がこれを読んだのは中学生の時だと言うのに...。教室の前の学級文庫に入っていたことまで思い出したのだから間違いない。
三ヶ月程前に『パーキーバットの日々(P・K・ディック)』を読んだときも、オチの部分を読むまで既読であることに気付かなかった。既読であることに気付かない本は、中高時代に、図書館で借りて乱読したものに多い。やはり、自分の懐を痛めないと身に付かないと言うことか。
こんなことでは、読書なんて、砂漠に水を撒くようなものだ。
ここまで書いてきて、はたと恐ろしい可能性に気付いた。
途中でも、読後でも、既読であることに気付けばいい。しかし、気付かないことがあるとすればどうだろう。壊れたレコードをかけたプレーヤーの様に、同じ本ばかり繰り返し読む人生には魅力を感じない。信用出来るのは新刊だけ、と言う日が来ないことを祈ろう。