Doing

ストレスが溜まり、愚痴っぼくなってくると、ついついそれを言い訳にして、自分の行動まで卑しく礼を欠いたものにしがちである。しかし、どんな理由や背景があろうとも、人間はその行動で価値が決まる。理由や背景は結局の所、本人とそれを知る親しい人々に対する免罪符にしかならない。
たとえば、親に虐待されて育った人物が居たとしよう。「親に虐待されて育ったから、自分の子供の可愛がり方が分からず、ついつい自分も子供を虐待してしまう」人も居れば、「親に虐待されて育ったから、自分の子供には絶対にそういう思いをさせたくなく、人並み以上に愛情を注ぐ」人も居る。出発点は一緒なのに、到達点は真逆である。
ネガティブな出発点は同情に値するが、成人がそれを免罪符にして下卑た行動を取るようでは、まったく尊敬に値しない。むしろ、マイナスの材料なればこそ、それにどう対応出来るかで人間の価値が決まるのではないだろうか。
特に大きな次元の話でなくとも、例えば「失礼な態度、矮小な人間性」で接してくる輩に対して、同様の態度で対応してしまっては、自分の人間性を貶めてしまう。そう言う相手なればこそ、礼を保ち、度量の大きいところを見せねばならない。
損得勘定で言うのであれば、好意が無になることなど微々たる損失であり、相手に合わせて自分の人間性を貶める方がはるかに大きな損失なのだ。
どんな理由や背景があろうとも、人間はその行動で価値が決まるのである。