Bias

yano_zeon2006-05-09

偏見とは「かたよった見方・考え方。ある集団や個人に対して、客観的な根拠なしにいだかれる非好意的な先入観や判断」のことである。
私の父は半年程前から鬱病を患っていた。通院し自宅で投薬治療を続け、どうにか生活出来ていたのだが、心ある複数の知人から善意と共に「睡眠薬抗うつ剤は飲み続けると副作用が出るし、常習性があるからやめた方が良い」との助言を頂いたらしい。病状が快方に向かっていた父は、その助言に従い医者の指示に反して服薬を何日かやめた。すると、薬のリバウンドで病状が悪化し、日常生活もままならぬ程衰弱し、昨日、精神病院に入院した。

世の中で最も残酷なことは、往々にして善意によって引き起こされる。

父は自分が精神病であることを認めたがらず、精神科にかかる事に対して抵抗があった。また、鬱病だと診断された後もごく親しい人以外には単に「体調不良」と伝えていたし、精神病院に入院したことも他人には知られたくないと言う。私も父の意を受け、父が精神病であることに対し、言葉を濁してきた。
しかし、鬱病は脳内物質分泌異常によって生じるただの病気であり、異常の出た箇所が違うだけで、肝臓が悪くなったことや、老眼、腰痛などと本質的な差はない。老眼になった、足腰が弱ってきた、肝臓が悪くなったとて、病院で診断を受けることをためらわないだろうし、取り立てて不名誉だとは考えまい。にも関わらず、父がそう考えるのは世間ではいまだに精神病に対する偏見、蔑視意識があるからだ。自営業を営み、田舎の地域社会に属する父はそれら偏見と蔑視に晒されたくなかったのだろう。ことの善悪は別として、いまだに精神病に対する偏見、蔑視意識は厳然として存在する。総合病院では精神科の入り口だけ別にしていたり、窓口で本人の名前を呼ばなかったり、個人情報保護に十分な注意を払っているが、裏を返せばそれだけ偏見と蔑視があると言うことだろう。
父の精神病に対する偏見がなければ早期治療によって、鬱病はもっと軽度で留まっていた可能性が高い。また、世間の鬱病に対する理解がもっと深ければ、父の病状の進み方も違っていたことだろう。
父の意に従って、父が鬱病であることを隠していれば、折角私が得た有用な経験や知識を親しい人々に伝えることもままならない。偏見を防ぐ最も有効な方法は客観的で正しい知識を得ることであるから、このままでは私もそれら偏見に荷担していることになる。そして、偏見や蔑視は更なる不幸を産む。
そう考え、とりあえず、この日記上では父が鬱病であることを隠さず、普通に心に留まったこと、得た知識などを記していこうと思う。