Condition

yano_zeon2006-02-10

有名な「妻をめとらば才たけて みめ美わしく情ある」は『人を恋ふる歌(与謝野鉄幹)』の冒頭部分である。
鉄幹は、与謝野晶子の夫であり、モテモテの才人だったようである。
「才能があり、美人で、情け深い女がいい」なんて放吟出来るのも、モテ男故の傲慢さか。
与謝野晶子は彼の三番目の妻であり、しかも妻子有る鉄幹からの略奪婚である。
晶子の才には異論なく、鉄幹との間に11人の子供までもうけたのだから、情もあったのだろうが、見目麗しかったのかどうかは疑問。
さて、本日の話題は二節目の「友をえらばば書を読みて 六分の侠気四分の熱」の部分である(まくら長すぎ...)。


鉄幹は、友人の条件として、「読書」「侠気」「熱」と述べている。
「侠気」は「きょうき、おとこぎ」と読み、「弱い者が苦しんでいるのを見のがせない気性」であり、男らしい気質とされている。対語は「女気」であり、こちらは「しとやかで優しい気持ち」とされている。
「熱」は「熱意」とでも解釈するのが自然だろう。
すなわち、「読書家であり、弱い者が苦しんでいるのを見のがせず、熱意がある」男を友としろと言うのだ。
妻に求める条件がかなり理想的であるから、友に求める条件も理想的なのだろう。
すると、先進的な明治男の思想が良く分かり、妻と友を対比すると、「才能-知性」「美-侠気」「情-熱」となる。
男女に求める性能が大きく異なるが、明治期の女性で「書を読む=学がある」者が少なかっただろうから、現代においては、男女共に「書を読む」に変換出来るかも知れない。
私も鉄幹と同様、友は「書を読みて六分の侠気四分の熱」な者を得たい。
そして、同時に私も「書を読みて六分の侠気四分の熱」な者にならねばと克己するのである。

妻をめとらば才たけて みめ美わしく情ある 友をえらばば書を読みて 六分の侠気四分の熱
恋の命をたずぬれば 名を惜しむかな男ゆえ 友のなさけをたずぬれば 義のあるところ火をも踏む
汲めや美酒うたひめに 乙女の知らぬ意気地あり 簿記の筆とる若者に まことの男君を見る
あゝわれコレッジの奇才なく バイロンハイネの熱なきも 石を抱いて野にうたう 芭蕉のさびをよろこばず
人やわらわん業平が 小野の山ざと雪をわけ 夢かと泣きて歯がみせし むかしを慕うむら心
見よ西北にバルカンの それにも似たる国のさま あやうからずや雲裂けて 天火一度降らんとき
妻子を忘れ家を捨て 義のため恥を忍ぶとや 遠くのがれて腕を摩す ガリバルディや今いかに
玉をかざれる大官は みな北道の訛音あり 慷慨よく飲む三南の 健児は散じて影もなし
四度玄海の波を越え 韓の都に来てみれば 秋の日かなし王城や 昔に変る雲の色
あゝわれ如何にふところの 剣は鳴りをひそむとも 咽ぶ涙を手に受けて かなしき歌の無からめや
わが歌声の高ければ 酒に狂うと人のいう われに過ぎたるのぞみをば 君ならではた誰か知る
あやまらずやは真ごころを 君が詩いたくあらわなる 無念なるかな燃ゆる血の 価少なき末の世や
おのずからなる天地を 恋うるなさけは洩らすとも 人をののしり世をいかる はげしき歌をひめよかし
口をひらけば嫉みあり 筆を握れば譏りあり 友を諌めて泣かせても 猶ゆくべきや絞首台
おなじ憂いの世に住めば 千里のそらも一つ家 己が袂をというなかれ やがて二人の涙ぞや
はるばる寄せしますらおの うれしき文を袖にして きょうは北漢の山のうえ 駒立て見る日出づる方
『人を恋ふる歌(与謝野鉄幹)』