Self-recrimination

NDAJ静岡リーグのプレイオフで、Division Lを制した我がチーム「鷹の目」とDivision Rを制した「BASTOS」が対戦した。
下馬評、そして自分達の予想通り、BASTOSに敗れ、全国大会への出場権を獲得出来なかった。
慰めの言葉も、言い訳もいくらでもあるが、負けは負けである。

うつ向くなよ ふり向くなよ 君は美しい 戦いに敗れても 君は美しい

なんて言われても、全力で戦う姿が美しいのであって、敗れる姿が美しいわけではない。
そして、「全力を尽くした」と言い切れない自分は、やはり美しいとは思えない。

「勝つための最善の準備」をしていなかった。
ここしばらくは週一、リーグ戦の時だけ会場に行ってダーツを投げていた。

練習するための時間を作ることも当然「勝つための準備」なのだから、「仕事が忙しい」などいいわけにならない。
悔し涙を流すほどのことをしていないから、大手を振って悔しがれないし、悔しがる資格が無い。

むしろ「負けるべくして負けた」自分に腹が立つ。
後悔するぐらいなら、きっちり投げ込んでおけよ。
今回の敗戦による教訓:「ちゃんと練習しておきましょう」
もう、当たり前過ぎて、400円(メドレー一回のゲーム代)くらいの価値しかない教訓。

「勝つための最善の準備」をしていたのならば、負けても素直に悔しがれたはずだし、今よりレベルの高い教訓、経験値を得られたはずだ。

無論、私以外のチームメイト達は「勝つための最善の準備」をしていたのだから、悔しがる権利もあるし、私を責める権利もあるのだが、誰も私を責めない。
であるがゆえにこそ、自責の念が募り、連合赤軍の様な「自己批判」と「総括」に走ってしまう。

対戦相手であるBASTOSの広瀬さんやEdoさん、会長は、週3〜5日くらいみっちり投げ込んでいたのだから勝つ資格がある。
しかし、同様に我がチームメイト達にも勝つ資格があったはずなのだ。

たかがダーツである。
遊びなれば、楽しければいいし、そこに責任を感じたり、ストレスを感じる必要はないのかもしれない。
しかし、遊びなればこそ真剣に挑み、勝ちに行ってこそ、勝っても負けても充実感や楽しさがあるのではないか。
されどダーツである。

「我が生涯に一片の悔い無し!」と言い切れたラオウは、全力で生きたのだ。
「ことにおいて後悔せず」と言えるようになるため、仕事も遊びも私事も高次元で両立するように全力で生きていきたい。