Confucius

包丁人味平牛次郎/ビッグ錠)』と言う元祖料理バトル漫画の中に以下のようなエピソードがある。

主人公味平は、客の出身地や職業を察知することにより個々の客に合わせた味付けの料理を出して好評を博するが、カレー対決の際、審査員に「お前の自信の一杯を出せ」と言われ、「自分の味」を見いだせず敗北を喫する。

商売的には、市場調査の結果のみに固執たり、客に媚びたりしてはならないとの考えにつながるが、本日はその話はおいておく。

さて、私は「他人を尊敬し尊重しない者は他人に尊敬・尊重されない」を座右の銘にしているし、「自分のことを愛してくれる人達を大切にしたい」と常々思っている。
ところがここに落とし穴がある。
「他人を尊敬し尊重しない者は他人に尊敬・尊重されない」は、自分の相手への接し方が他人から自分への接し方を決定し、他人を尊敬し尊重する者は他人に尊敬・尊重されるはずだとの考え方である。
ところが、どんなに相手を尊敬・尊重しようと心掛けていても、世の中には自分を尊敬・尊重してくれる相手とそうでない相手が居る。
特に個々のライフスタイルの話など、私は「貴方の邪魔はしませんから私の邪魔もしないでね」と願っているのだが、自分の価値観を「常識」として押し付けて来る横柄な輩は世のいたる所に居り、そう言う輩をいちいち尊重していてはダブル・バインド(二重拘束)状態に陥りかねない。
聖人君子であろうとも、皆が皆尊敬してくれるわけではないから、ナザレの大工は磔られ、ゴータマ・シッダルダは迫害されたのだ。
そうなると「他人を尊敬し尊重しない者は他人に尊敬・尊重されない」との理念が「他人を尊敬し尊重しない者を尊敬・尊重する必要はない」に変化し、「失礼な言動をしてくるヤツにはそれなりの対応を」との思考に裏返ってしまう。
すると、結果として相手の行動に対応することが多くなる。
小人なれば「自分がこうしたら相手もこうしてくれるはず」との打算を打ち消せないためであろう。

ここで、冒頭のエピソードとつながってくる。
すなわち、味平のように、相手の行動に対応してばかりいると、自分の明確な意志、行動原則を見失ってしまうのである。
いや、自分の明確な意志、行動原則を持っていないからこそ、相手の行動に対応しているのかもしれない。
揺るぎない「自分の味」、すなわち「自分のスタイル」を確立した上で、状況に応じて相手に対応することが肝要だと考える。
相手の態度を言い訳にするのはやめて、自分のなりたい自分を確立していきたい。

問題は、自分がどういう人間になりたいかである。
35年も生きていてもそれが定まらない。

子曰、吾十有五而志於学。
三十而立。
四十而不惑
五十而知天命。
六十而耳順
七十而従心所欲、不踰矩。

論語、為政第二(孔子)』

と言う。30にして立つことは出来たと思うが、あと5年で惑わぬようになれるか心配である。