Bias

3年前、世間で大きく心神喪失者の犯罪について取り沙汰しており、私生活上でも自律神経失調症を発症した同僚の仕事の煽りを受けていた時期に、私は日記でこんなことを書いている。

例えば、ガンとか心臓病とかは、やむを得ない病気で、アルコール依存症、性病、精神病などはやむを得る病気である。肺ガン、風邪などは、その要因によって、どちらの場合もあり得る。 やむを得ない病気については、同情もするし、助力もしたくなるのだが、やむを得る病気については、あまり同情出来なかったりする。 自律神経失調症の犯罪者など見ると、精神病だからと言って責任能力を問われないことが理不尽だと感じる。 それによって大なり小なり被害を被った人達にとっては、病気は全て病気だ、と割り切ることは難しいのだろう。 かく言う私も、自分に害が及んだ際には、他人のやむを得る病気に対して憤ることが多い。五体満足なればこその傲慢である。

文末でおためごかしに「五体満足なればこその傲慢である」と付け加えてはいるものの、アルコール依存症、性病、精神病などはやむを得ない病気とは言えず、あまり同情出来ない」と述べており、明らかな偏見を感じる。
この日記を著してから現在までの間、精神病を患った同僚や知人・友人と付き合い、また、つい最近には実父が軽い鬱病を発症した。これらの経験と、興味を持ち、あるいは必要に迫られ、関連書籍を読んだことにより、精神病についての理解と知識は深まり、偏見は減少したと思う。
ガンで突然倒れ逝去した母と、精神病を患った父との間に、病種の差こそあれ、本人の責任の差はない。どちらも病である。また、慢性的な精神疾患を有する友人とて、「本人の責任」や「甘えている」わけではなく、アトピー持ちとか、近眼とか、喘息持ちと同様、その人の個性であるとも考えられるようになってきた。身体のあちこちが傷んでくるのと同様、精神、神経が傷むこともあるのだ、と。
とは言え、精神的疾患を持つ者と上手く付き合うのは、身体的疾患を持つ者と上手く付き合うのよりも少し難しい。
それは、精神的疾患が「常時」発症しているわけではないからだ。
喘息持ちとて常に喘息を発症しているわけではないし、何らかの病気を持つ者とて常に体調が悪いわけではない。しかし、身体的疾患を有している者の体調悪化は本人が自覚して周りにそれを伝えることが出来るのに対し、精神的疾患を有する者の精神状態悪化は本人が自覚して周りにそれを伝えることが出来るとは限らない。
いきおい、周りの者は「機嫌を伺わなければ」ならなくなる。
「精神病患者を甘やかすな」とは良く言われることだが、相手の機嫌を見極められない場合には安全側に振った対処を取ってしまいがちであり、それが「甘やかす」につながる。
相手の機嫌を伺い、それに適した対応をするためには、多くのエネルギー、そして慣れが必要である。このエネルギーを捻出するためには、多くの愛情が必要である。
自分に余裕のある時にはこれらエネルギーを捻出することが可能だが、自分に余裕が無くストレス耐性が低下している時にも安定してこのエネルギーを確保していくのは難しい。
そして、相手が精神的疾患を発症していない姿が残像として残っている場合にはついつい「甘えるな」と言ってしまいたくなる。無論、そんなことを思ったり、言ったり、態度に出したりしては逆効果であり、相手の負担も自分の負担もいや増すばかり。
いろんなことを包み込んでいける器の大きい人間になりたい。
また、精神的疾患は多分に遺伝的要素が大きいと言う。自分の親族に精神的疾患を持つ者が居なかったから安心していたが、父が発症したと言うことは、私自身にもその可能性が多分にあると言うことだ。
「子供怒るな来た道じゃ、年寄り怒るな行く道じゃ」と言うが、私にとっては「精神病患者怒るな行く道じゃ」と言えるかも知れない。
自分に出来ることを一つ一つして行こうと思う。