Anticlimax

まだ自分の方向性が定まっていない10代後半から20代前半には、いろんな服を買っていた。
「かっこいい」服、「あこがれ」の服、「着たい」服。
お小遣いも少なかったし、下心も沢山あったし、時間があったから、一生懸命考えて服を選んでいた。
でも、そのうち、「着たい」服と「似合う」服は必ずしも一致するものではないことに気付く。
他人に「似合うよね」と言われる服にある程度の方向性があることに気付くし、自分でも「何か違う」と感じる。
ファッションを議論する際に重要なのは、体型云々やコーディネイト以前に「ライフスタイル」とのマッチングなのだ。
すなわち、ファッションは自分の思想や生き方を表現するインターフェイスなのであり、単体で成立するものではないと言うことだ。
20代中盤にもなれば、試行錯誤しながら、自分のライフスタイルとマッチするファッションが分かるようになる。
こうなると、服を見ただけで「似合う」「似合わない」がある程度判別出来るようになり、タンスのこやしにしかならないような服を買うことも少なくなった。
そして、30を過ぎると、これが更に促進され、「勝ちパターン」を作ってしまい自分の路線を自己規定するようになってしまう。
しかして、30も半ばになり、同世代の男女を見るに、「痛い」格好をしている者が目に付く。
元々センスが無かった者だけではなく、10〜20代にはスタイリッシュだった連中までもがである。
そう言う連中は、往々にして自分の「勝ちパターン」に固執していて、80’sやearly 90’sをそのまま引きずっており、自分が「格好いい」と言われた頃のファッションやメイクを自己模倣している。
無論、自分の好きなファッションをしていればいいのだとは思うが、彼らは本当にそれが好きなのだろうか。
ただ単に客観性がないだけにしか思えない。
流行も、自分も日々変化している。
周りを見て、合わせて動いて行かなければ、向上心云々以前に自分のポジションを一定に保つことすら難しい。
川面に漂う小舟のように、「漕がざれば退くのみ」であり、安穏としていてはどんどん下流に流されてしまう。
また、「俺はこれだ」と言う決めつけも、それがスピリチュアルで、根元的なものならば、守らねばならないだろうが、その譲れない魂を達成する手段であるのならば、固執してはならない。
手段は目的を達成するために一番効率的なものを採用するべきである。


さて、これらの経験則、哲学は、ファッションのみならず、友人であるとか、異性であるとか趣味であるとか、いろいろな事柄に置き換えられる。


例えば、友人について、昔は色々チャレンジしていたが、20代中盤前後でその傾向が定まってしまい、同様の友人ばかりに囲まれていなかったであろうか。
また、ある種の人種に対して「こういう人とは友達になれない」と諦観していなかったろうか。
若い頃には理解出来なかったことが、齢を重ねるにつれ、理解し、許容出来るようになっているかも知れないのだから、安易な経験則は、自分が成長する機会を喪失させている。
エネルギー量が一定である場合には、どこかに深化させるためには、集中させる必要があるように思えるから、「今更間口を広げるよりも、自分の好きなものに注力し深めていきたい」との考え方があるのは理解出来る。
しかし、実際に穴を掘って見ると分かるのだが、有る程度以上の深さを越えて更に深く掘る場合には穴の幅を広げた方が効率がいい。
効率があがれば、エネルギー量が一定であっても深部まで到達出来るのである。
すなわち、人間としてのリソースをエネルギー量と考えた場合、「エネルギー量=排土量」としてとらえて最適化するのではなく、「エネルギー-排土効率」を上昇させることにより排土量自体を増加させることを考えるべきなのだ。


論が大分それて、しかも観念論的になってしまった。きっと誰もここまで読んでくれないのだろうなあ(笑)。


まあ、大分はしょって要約すると、
「ファッションも、友人も、趣味も、あんまり自分で自分を縛らずにいろいろ試してみよう。固まってしまったら面白くないし、ちっぽけな人間になっちゃうもんね。うん、そうしよう」
って感じかな?
竜頭蛇尾
反省...