Commonness

「昔は自分が普通と違うことをしているのがある意味自信の源でもあった。むしろ、自分は普通になったらアイデンティティーを喪失し、生きていけないとすら思っていた。しかし、最近では普通にしなければ生きていくことが困難だと感じ始めてきた。いつからこんなに臆病になってしまったのだろう。自分に自信を持ちたい。そして、普通ってなんなのだろう」
こんな相談を某嬢から持ちかけられた。
とても良く理解出来るし、共感出来る悩みだ。
無根無い自信を持つには理性が有りすぎ、根拠有る自信を持つには能力や経験が不足している若者は多い。私も、そんな一人だったのだと思う。
更に、他人に劣ることを認めるには自尊心が勝り、無思慮に生きていくには知性が有りすぎれば、普通と呼ばれることを嫌うだろう。普通と言う枠内で他人と勝負しては勝てないからだ。だから、普通ではないところに身を置き、自己の尊厳を保とうとする。
しかし、精神構造が熟し、視野が広がるにつれ、世の中に単純に割り切れる普通なんて世界はないことに気付く。そして、普通から逃げてたどりついた場所も、やはり自分が恐れていた普通の世界の一部であることにも気付く。
その段階で、普通ってなんなのだろう、と言うことに疑問を抱くのは当然のことだ。
普通なんてない。大多数が信じているものを普通だとしても、そこに普遍性は無い。普通なんてのは幻想だ。
普通や常識を振りかざす人間は、価値基準を根拠付け、判断するだけの理性や知性を持たない。思考を停止し、至極狭い自分の身の回りの世界での多数派に自分の思考をゆだね、依存する。更にひどい場合には、自分の独善的な価値観を他人に「それが普通だから」と押し付ける。
そして、逆説的ではあるが、すべては普通の一部なのだ。地球も、月も、太陽も、α-ケンタウリも自分の住んでいる町も、秘境もすべて宇宙の一部である様に。
しかして、普通を否定するのも、普通を肯定するのと同様、己の知性、理性、感性に依存しない行為である。その判断基準が「普通」であることに変わりはないからだ。
バランス感覚を持ち、己の回りの世界に目を向けることは必要だ。いわゆる「普通」に生きていくのが楽かどうかは別として、自分の周辺の人間と異なりすぎる判断基準、価値観で生きていくのはいくつかの意味でリスクが大きい。
そのリスクも承知した上で、普通とか普通でないとかを超越して、己の信ずる価値観に従って生きることはとても素敵なことだと思う。更に、自分とは違う価値観も許容できる度量があれば、きっと、その人の生き方は回りにも認められることだろう。
でも、そう言う生き方をしていて、何かにつまずくと、自分の理性や知性、価値観が本当に正しいのか自信が無くなる。信頼でき、尊敬できる誰かに「それでいいんだ」と認めて貰いたくなる。
そんな時、茶化したり、ごまかしたりせず、ちゃんと判断し、助言出来る人間になりたい。
そして、出来るのならば、「それでいいんだ」と認めてあげたい。自分が他人にそう言って貰いたいから。
そうやって、人との信頼関係を築いて行きたい。