Outrage against humanity

人道主義を唱える人達は、人道、人倫、特に人命を宗教や思想、法律、経済などよりも優先する。
ここで第一の問題となるのは、他の様々なイデオロギーと同様、人道主義に普遍性がないことだ。地域的に見ても、歴史的に見ても、人道の定義、包括範囲は多様である。そんな人道主義を普遍的で絶対的なものだとし、それによって思考停止して、反論すら許さぬ態勢、あるいはそれに対して納得する態勢に対しては反感を禁じ得ない。
これらの態勢は、民主主義、全体主義、封建主義、共産主義など、多様なイデオロギーが、その権勢を伸ばす時期に主に見られたものであり、人道主義はそれら、単独のイデオロギーが社会を支配しようとする際の大きな抵抗勢力だったはずである。
それらの教訓から、人道主義者達は、「人命は他のイデオロギーよりも優先する」との演出を行っているのかも知れない。とは言え、動機や目的は手段を正当化するものではない。
また、ある意味では、ほぼ全ての宗教や思想は、根底に人道主義があり、宗教や思想の差異は、人道へと到る過程が異なっているだけであり、人道最優先主義は、いわば人道、人倫、人命に対する原理主義だとも言えよう。
第二の問題は、その人道主義の視点が巨視的か、近眼的か、と言うことである。
「人命第一主義」「人命は地球より重い」と言う論理は、多数の人命を比較した場合に崩壊すること、死刑、正当防衛、緊急避難、戦争などとと相反していることを直視すべきだ。
人道主義を振りかざしながら、近眼的なセンチメンタリズムで物事を判断する輩に対して、十分に注意する必要がある。
「アフガン難民の子供達が」「日本領事館に飛び込んだ亡命者達が」「アフリカの飢えた子供達が」「パレスチナ難民が」可愛そうだと言って、そこのみに注力していたのでは、捨て犬が可愛そうだからと言って、無責任に餌を与える態度と同じだ。
その根底にあるものを理解しなければ、自己満足で終わるだけでなく、施された側にとっても長期的には迷惑であり、また己にもその咎が返ってくる。
例えば、一組の夫婦から10人など、扶養可能な数を超えて、子供を産む某国があったとする。その子供が経済的にも、社会的にも満足に養育されないのは、ダーウィニズムを持ち出すもでもなく、明白だろう。
しかし、黒柳徹子的(あえてそう言う)人物が「子供達が可愛そう」と、援助し、乳幼児出生率を低下させた場合、その子らが就学年齢に達した際、教育施設の不足が生じる。また、社会資本の拡充よりも人口増加が早くなるため、就業率も低下する。限られた国土では、国民を養いきれないため、政治的にも不安定になり、慢性的な飢餓状態に陥る。政治不安と、食糧自給自給率の低さは、国民の海外への流出を産み、難民、移民となる。難民、移民が流入してきた国も派生的に就業率が低下する。
さらには、地理的フロンティアが減少するばかりではない。地球自体が有限の空間であるから、ライフスタイル、生産性、循環系のイノベーションが伴わない人口の増加は、地球環境の悪化へとつながる。
「千里の道も一歩から」とか「今、自分に出来ることを」との無私の精神が崇高ではあると思うのだが、目先の人道に囚われては、対局的な人道な人道にもとることになりかねない。
近眼的で幼児的な人道主義に対して、追従してはならないのではないだろうか。
なんて、偉そうなことを、最近のニュースを見て考えている。大分不遜だな。
きっと、今日の日記は、誰も最後まで読んでないのだろうな。