Name

どうにもニックネームやハンドルネームと言うのが苦手だ。
自分の名前が比較的シンプルで省略するまでもないこともあり、WEB上でも、日常生活でも、夜の街でも、ゲイバーでも*1本名で通している。
もしかすると、これは単に名前のことに留まらず、自分の人間性を反映しているのかも知れない。
「複数の名前を有する=複数の人格を使い分ける」と言うことだと仮定すると、私は複数の人格を使い分けることが下手なのだと思う。『ぼくたちの洗脳社会(岡田斗司夫)』では、近代社会、特にネット社会では各人は複数のコミュニティを選択し、各コミュニティによって別の人格を演じると述べていた。mixiなどでのコミュニティの概念はこれをWEB上に具現化したものだと言える。
私はそれが苦手だから、自分のコミュニティに周囲の人間を引き込んでしまう。だからだと思うが、私の知人は、その知人同士に直接的な接点がなくとも、私を介在して知り合い、そして鎹であったはずの私すら不要な人間関係を築くことが多い。この状態では「家族の前の顔」「仕事の顔」「恋人の顔」「プライベートの顔」「趣味の顔」などを使い分けることなど不可能だ。そして、そういう状態であるからこそ、名前は一つですむ。
また、若い頃、論述、ジャーナリズムに傾倒していたため、「匿名の発言は卑劣であり、尊重するに値しない」と考えていたことも影響している。2ちゃんねるなど、インターネットにおける匿名性が発達した昨今、そんなことを言っていても糠に釘であるのかも知れない。しかし、自らをたのむ「男」としては発言、行動には全て責任を持つべきだと考え、自らを戒めるためにも常に「実名」を用いている。
「恥」の文化を有する古き良き日本社会を愛する者として「名を惜しむ」ことはまさに男の美学ではないだろうか。もっとも、幕末から明治に至っても、侍ですら姓名共にコロコロ変えていたと言う歴史もあるから、一概に「名を惜しむ」が「日本人の美学」であるとも言えないかも知れないか。
「名を惜しむ」については実名でなくとも、ハンドル(コテハン)でもペンネームでも構わない。しかし、匿名で無責任な発言をしたり、都合が悪くなるとハンドルを変える「名を惜しまない」輩とは議論などしたくもない。
また、これら倫理上の観点以外にもハンドルが苦手な理由がある。それは単純に「呼びにくい」ことである。10年程前のインターネット黎明期、fjなどで活動していた私はある趣味のoff会に参加した。私のその時のハンドルは「矢野@都立大」であり、呼ばれることに違和感は感じなかったのだが、他のファンシーにハンドルの方々がそのファンシーなハンドルで呼び合うことに寒気を感じた。ファンシーなハンドルを発音したくないから相手の名前をたずねてもそれはマナーに反するのか、「ハンドルでいいですよ」などと言われる始末。いい大人が飲み屋で「フェイ・イェン大好きっ子」とか呼べるかっつうの。そんなトラウマもあり、リアルでも使われているニックネーム以外のハンドルは苦手になった。とは言え、「リアルとネットは別」とネット社会の水に慣れて来たのだが、最近また問題が生じてきた。それはダーツライブである。
ダーツライブでは自分で付けたカード名が、対戦時に画面に表示される。ちなみに私のカード名は「矢野@黒猫団」と「やの@黒猫団」である。初対面の相手と対戦した時には、画面で相手の名前を確認する。最近はこの名前が恥ずかしいとか呼びにくいとかの次元を越えて、発音出来ない輩が多いのである。「℃ΘЙ-сh@ηg」とか「uфффu」とか「(´ω`){ T.S.D.C」とか。どう呼べっつうんじゃ??
名前言え!!名前!!